[対談] 近未来の日弁連と憲法・人権問題を考える
     

立憲主義と基本的人権の擁護は、私たち弁護士にとって究極の使命です。
今回は、自衛隊イラク派兵差止訴訟などで活躍されている内河惠一弁護士をお招きし、これからの時代の憲法と人権について考えたいと思います。

 

内 河 惠 一

  ×   川 上 明 彦  

〔内河 惠一 プロフィール〕

      〔川上 明彦 プロフィール〕  
1938年生まれ。弁護士(22期・愛知県弁護士会)。四日市公害訴訟、名古屋新幹線公害訴訟などに関与し、朝鮮女子勤労挺身隊事件と自衛隊イラク派兵差止訴訟では弁護団長を務めた。       1954年生まれ。弁護士(34期・愛知県弁護士会)。日弁連の給費制維持運動の責任者として、給費制1年延長を実現。日弁連副会長(2015年度)としては、日弁連の広報力強化などに取り組んだ。  


まず、お二人の出会いからお話しいただけますか。

 

川上 私は昭和55年(1980年)8月に、司法修習で名古屋に来ました。修習生の学習会でテーマに取り上げたのが、新幹線公害訴訟だったんです。

 

内河 新幹線公害訴訟は、昭和49年(1974年)に訴訟を提起して一審判決まで6年。最高裁の和解まで入れると全部で13年ぐらいかけてやりました。川上君たちの新人研修のときに、僕は原告側として解説した記憶があるよ。

 

川上 ちょうど一審判決が出た後で、修習生が責任論、損害論、その他と分類して先生の前で発表しました。内河先生とはそこからの知り合いなんですよ。その頃からずっと、すごい先生だと尊敬しています。

 

内河 一番僕が元気な頃だったね。34期というのは、名古屋の弁護士会でも非常にそうそうたるメンバーがいました。憲法訴訟、公害訴訟、人権問題などで中心になっているのは、川上君をはじめ大体34期なんです。

当時、僕は青法協名古屋支部の修習生担当をやっていたから、毎回たくさんの修習生が事務所へ来たよね。今と違って1つのブロックしかないから、12~13人が一緒に誘い合って来る。だから、飯を食わせるのが大変だった(笑)。

 

 

川上 公式な勉強会は弁護士会館でやっていましたが、いろんなメンバーが集まって、憲法問題では先生のところでだいぶお世話になっていましたね。



公害訴訟との関わり

内河先生はどうして公害訴訟と関わるようになったのですか。

 

内河 僕が昭和43年(1968年)に修習生で名古屋に赴任し、最初に関わったのが四日市公害事件なんです。訴訟が提起されたのは昭和42年だから、始まってしばらくたっていたけど、かなり渦中だったよね。僕は修習生でありながら、しばしば四日市に行った。当時は、修習生にもそういう自由があったんだね。それで人生が大きく変わっちゃった。

四日市公害訴訟は昭和47年(1972年)に判決があって控訴なく確定し、その後1年間、三重県との間で被害者の安定的救済方式についての行政交渉をして、公害健康被害補償法のもとになるような仕組みをつくる作業をした。

 

翌昭和48年に、新幹線が走る現場を見てみないかという友人からの誘いがあった。僕は、新幹線というのは、ものすごく素晴らしい乗り物だと思っていた。ところが、誘われて沿線の住宅に泊まり込んでみたら、ものすごい風圧、騒音、振動で、こんなところに人は住めないと思ったね。新幹線が世界に冠たる交通機関なら、線路の下の人たちも何とか平穏に生活できるようにしなければならないという気持ちが、新幹線公害訴訟弁護団に入った動機だった。

 

弁護士になったきっかけ

 

内河 僕は26歳のときに弁護士になろうと思った。僕は、中学を出て直ぐ就職したが、縁あって22歳の時、上京し中央大学の夜間部に入ることになった。父は既に65歳で、僕が19歳の頃から半身不随で寝ていた母の世話をしていた。その頃我が家は生活保護の医療扶助等を受け、僕の仕送りでなんとか生活していた。ところが、僕が中央大学の夜間部を卒業した年に父親(69歳)が死んでしまった。長男である僕は、母の面倒を見ないといけないと思っていたが、姉の夫が面倒を見るといってくれた。僕は自由になり、そこで何をして生きていくかを考えた。

 

今までとにかくいろんな人の世話になりっぱなしだったから、恩返しをしないといけないというのが僕の思いの中にはいつもあったね。金もコネも学歴もない僕が曲がりなりにもお世話になった方への恩返しができる仕事は何だろうと考えた結果、弁護士しかないと。弁護士になるには金もコネも要らない。勉強さえすればいい。当時の受験料が1000円だったから、1000円あれば弁護士になれると思ったわけ。ただ、合格率が厳しかった。年によって違うけれども、1.5%ぐらい。それをクリアするために20年かけようと思った。50歳から弁護士をやって、社会に5年間恩返しをして55歳で死ぬ。これが26歳のときの僕のライフプランだった。今、81歳になったから、ちょっと生き過ぎたと反省しているんだけれども。

 

「恩返し」というのが僕のテーマ。だから、弁護士になるとき、弁護士会に僕の時間の半分を提供する、これが恩返しだと考えた。僕が恩を受けた人は殆ど死んでしまっている。それをどこかに返さないとバランスが悪い。それが公害患者であり、弁護士会の会務であったわけだ。

 

川上 内河先生は、若い頃苦労をされて、恩返しとして弱い人を救いたいという思いで弁護士になっているけど、私なんかはそこが全然違うんです。今の思いは同じでも。

 

私はもともと理系で、高校時代は大学へ行って量子物理学をやろうと思っていました。たまたま当時の友人の「弁護士もいいんじゃない?」という一言で、しゃべるのが好きだし、弁護士もいいかもしれないなと。そんな軽い動機で、内河先生のような筋金入りではないんです。

ところが、司法試験に通って、修習生になって、先輩の弁護士たちがすごく一生懸命やる姿を目の当たりにするわけです。人権問題について必死に頑張っている。弁護士とはこういうものなんだと思うと同時に、中学時代のことを思い出しました。

 

 

女性の国語の先生が、漢字ができないということで、クラスの男子4人と女子1人を前へ出して、女の子には出席簿で頭をカンカンとたたき、男の子4人に対して平手打ちをしたんです。そのときに、「先生、やめてください。ひどいじゃないですか」と言えなかったことがすごく情けなかった。それを先生に言う勇気がなかった。それがずっと自分のトラウマになっていたんです。それを思い出すと同時に弁護士に目覚め始めました。そして、先ほどの内河先生との出会いにつながっていくんです。



弁護士会での活動

 

川上 昭和58年(1983年)広報委員会に入ったのですが、これは内河先生に入れられたんですよ。子どもの権利委員会は付添人等をやりたかったから入ったんですけど、広報委員会は内河先生に「来い」と言われてスタートしているんです。

 

内河 確かに、僕は、川上君ら若い人によく働いてもらいました。優秀な若い先生達に、「あそこに行って」とか「これをやって」といってお願いしたものです。

 

川上 私は、平成22年から24年(2010~2012年)までの2年間、日弁連の給費制維持運動の責任者として全国70か所を回ったのですが、そのときも広報が弱いと感じ、力を入れました。平成27年(2015年)に日弁連の副会長になったときも広報担当を務めました。

 

内河 僕は、広報委員会の委員長をやっていたときに、若い弁護士に、「形だけの弁護士会のPRをするよりは、自分を売ろう」と言ってきました。これが僕の広報活動の原点でした。単純に弁護士会のチラシを説明しても、どこかで弁護士の不祥事が起きると、全て吹っ飛んでしまう。だけど、例えば仮に川上君が好きなことを生き生きと語る姿を見ていれば、聴く市民の心の中には必ずそのイメージが残るはずであり、その信用・信頼は崩れないわけだ。「自分の知ってる弁護士は違う」「私の知ってる弁護士は信頼できる」と思ってもらえる。それが本当の意味で弁護士・弁護士会が市民の信頼を得る道のりかなと考えた。私にとって広報のキーワードは、常に 「face to face」だったね。

図書委員会の委員長をやっていたときも、委員の皆さんに、とにかく「自分の好きな本を買え」「みんなが読まない本を買え」と言ったもんです。少し遠回りですが、会員に役に立つ図書室を考える機会にもなったと思っているね。お金がないから2000万円集めようといって募金活動をやったら2000万円集まって、今の図書基金ができた。それで図書室は購入資金の上で余裕が出来たんだ。そんな調子で会務活動はとても楽しんでやれたね。

 

川上 私は、生の弁護士の姿を見てもらうことが、広報においてとても大事だと思っているんです。その原点は、内河先生が言われるところの、自身を売ること、歩く広告塔になって自分たちに会ってもらうことなんですね。

 



集団訴訟は人を育てる

公害訴訟では、委員会活動を通じての協力態勢はあったのですか。

 

内河 四日市公害訴訟は、若い弁護士を育てたよね。ただ、弁護士会がそこに関わるということは基本的にはないわけだ。ただ、集団事件はドラマが多いだけに、そこに関わることによって弁護士としての情熱のようなものをかき立ててくれるよね。

12年前「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」で名古屋高裁から憲法違反の判決をもらったとき、私の目から自然に涙が出た。判決をもらって法廷で涙したのは、まさに四日市公害訴訟以来だった。沢山の弁護士が協力してやり遂げた訴訟事件にはそうした要素もあるのだろうね。

弁護士会がどうこういうのではなくて、そういう生の事件の中で我々は教えられ成長していく。だから、僕は「集団事件は絶対やるといいよ」と若い弁護士に言う。それぞれ情熱を持っている弁護士がひとつの事件に集中していくから、事件処理の迫力がものすごく違う。

四日市公害訴訟では、最後に、ぜんそくが酷くて法廷に出てこられなかった原告がいて、肉声をテープに吹き込んで、法廷でテープの弁論という異例なこともやった。故北村利弥弁護団長が「世紀の判決を!」と言って感動的な最終弁論を終えたが、その弁論の感動が、私のその後の弁護士生活50年の基盤になって、その後、新幹線公害、貧困問題、イラク派兵、挺身隊問題、生活保護へと続いているわけです。

 

川上 四日市公害訴訟は、患者側は若い弁護士が非常に頑張っていました。片や企業側は、いわゆる大ベテランの弁護士がやっていたと体験談として聞いています。

当時は、高度成長で日本が右肩上がりの時代でしたが、いろいろなひずみが出始めている時期でもありました。そういう中で、若い先生たちが非常に頑張ったという歴史的な意味を持っているわけです。

 

内河 教科書も何もなかったわけ。コンビナート企業の煙突から排出される煙が四日市ぜんそくの原因だといっても、ぜんそくなんてどこにもあるものだから、そう簡単に因果関係はつかめない。だから、疫学的手法というのが活躍した。

疫学的手法というのは、医学の世界でも亜流の分野に属するんですよね。アンケート調査を駆使して、いろんな答えを出す等、病理学などとは全然違う。四日市はまさにその疫学手法で勝ったんですね。冬、風がこっちに吹くからこっちに患者が増える。夏、風があっちに吹くから患者があっちに増える。だからその中央にあるコンビナートがぜんそく発生の原因企業である。そういう単純な手法が四日市ぜんそく公害事件の結論を導いたわけです。

四日市公害の被告6社は、中電のように煙をたくさん出すところと、三菱モンサントのように本当に風呂屋の煙突の煙ぐらいしか出さないところがあった。もちろん分割責任論も出ました。共同不法行為の責任論は大きな争点でした。

被告が重要な論点に関する淡路教授の論文を証拠として提出して来たのに対して、冨島弁護士が、淡路教授の「新しい見解」を示す論文の掲載される法律雑誌のゲラを提出して反論した場面があった。若かった私などは、正に生きた裁判を目の前にして強い感動を覚えたね。

あの四日市公害判決以降、民法709条・719条を中心にした不法行為の教科書の解説が非常に詳細になったということを記憶している。

 

川上 若手が創造性を持ってチャレンジして、今までにない立証や主張のやり方をしたり、訴訟行為をすることによって道を開いた時代でしたね。

では、今の時代はどうかといいますと、例えば再審事件を見ると、愛知の近くでは名張毒ぶどう酒事件、豊川事件、さらに静岡の袴田事件。もっと言えば、鹿児島の大崎事件。さらに有名なのは熊本の松橋事件がありますが、これは自白だけで、いわゆるその信用性を規定したという事件で、再審無罪が決まりました。これも弁護団の若い人たちが一生懸命考えて、チャレンジしていった成果なんです。こうしてみると、弁護団の伝統というものは、今でも弁護士会の中で脈々と受け継がれていると思います。

 

他方で、最近の若手弁護士の話を聞くと、弁護団活動への取り組みにあたって様々な障害があるようです。OJTの視点からも、弁護団活動への参加について日弁連として一定の支援を行う必要があると思いますね。



憲法と日常生活

 

川上 実は、内河先生にぜひ聞きたいことがあるんです。私は昭和49年に京大に入ったのですが、その当時の京都府知事が蜷川虎三さんでした。28年間府知事を務めた方ですが、彼は「憲法をくらしの中に生かそう」という言葉を使っていて、初めてその垂れ幕を見たときに、「何だこれは」と思ったんです。今考えてみると、憲法というものを暮らしの中に生かすということは、現代でもいろいろあるのではないかと。

先生は、イラク派兵差止訴訟や韓国挺身隊裁判、生活保護裁判と、憲法に関わる裁判を結構やられていますよね。先生の体験を踏まえたお話をぜひ伺いたいです。

 

内河 たとえば生活保護の話をすると、僕が名古屋弁護士会(当時)の副会長をやっていたときの後半の昭和58年12月から昭和59年1月はものすごく寒い冬で、何人かの野宿生活者が凍死した。それで支援の人たちが何とか対応策をとるようにと名古屋市に要請行動を行い、不退去罪で逮捕された。刑事事件になって3人が拘置所でハンガーストライキをして頑張っていた。そのときに弁護人を頼まれた。僕は副会長で忙しかったから無理だと言ったけど、最終的に受けてしまった。これが貧困問題への最初の関わりだった。

 

それから10年ほどしてバブルが崩壊した。今まで日雇いで働いていた人たちが職を失い、ホームレスが著しく増加した。ホームレスの連中は身寄りもないし金もないというので、生活保護給付を求めて名古屋市の福祉事務所へ行った。生活保護法というのは、誰もが人間らしい生活が出来ることを願って戦後にできた素晴らしい法律なんだ。ところが、戦後の復興の流れの中で、ホームレス状態に取り残された人々は全く「枠外」に置かれてしまった。ホームレスに金がないのは当たり前。食べられんのも当たり前。家のないのも当たり前というような考え方が社会や行政の中にできあがってしまった。

彼らは本当に水道の水を飲みながら生活をせざるを得なくなっちゃった。それが平成5年の頃で、一人の男性がどうしても生活保護が受けられず事件になった。代理人になることを要請されたとき、慣れない行政事件に戸惑いはあったが、かって我が家も生活保護のお世話になったこともあり、生活保護の問題で困っている人がいれば関わらないわけにはいかない。

それはまさに憲法25条の問題で、これがホームレスの人たちにとっては今日の飯であり、水であり、生活の希望になるわけで、まさに日常生活と憲法が密着したひとつの場面となる。「憲法と生活」というテーマは、その問題を受ける人の感性の問題のように思うね。

 

イラク訴訟の場合は、アメリカがイラクを攻めた。テレビは映画のごとくイラク攻撃を映像に流していた。その平成15年(2003年)の年末に、日本の自衛隊がどうもイラクに出かけるという話が出てきた。

アメリカがイラクを攻めるというのは、よその国のことだからどうにもならない。しかし、憲法9条のある日本がアメリカと同じことをやったら、これを法律家としては黙っているわけにはいかない。同じ思いを持った弁護士数人と市民があるデモ行進に参加し、その最後の解散の栄公園で、裁判をやろうということを確認したわけ。2004年の初めのことだった。

当時、アメリカのイラク攻撃の場面を、いやというほどテレビで見せられていたので、多くの日本人の中に、なんとかしなければという良心の叫びがあった。訴状は「ですます調」で書くことを確認し、原告は、インターネットで募集した。なんと3000人を超す原告が全国から集まり、裁判が始まった。

裁判開始前の1年間、イラクの悲惨な状況をテレビの映像で見ていたわけ。僕の家は、僕が6歳の時、アメリカのB29の焼夷弾爆撃で完全にやられた。防空壕に潜んでいたら、防空壕の中に焼夷弾が飛び込んできたので家族そろって慌てて逃げ出した思い出がある。

もし平和憲法がなかったら、日本人は、ベトナム戦争に行っていたかも分からない。あるいは朝鮮動乱に参加していたかも知れない。そうした社会状況だったら、私が弁護士になることもなかったろうと思う。

記者会見の時、「私の人生を助けてくれた憲法に恩返しのつもりでこの裁判に関わる。」と発言した。日本人はもっともっと、日本国憲法をそれぞれの生活に結びつけて考えて良いと思っている。

 

憲法は何か特別の額縁に入ったような存在として受け止められがちだが、それは間違いだろうね。最近、名古屋でもトリエンナーレの問題が大きな話題になっているが、表現の自由があるかないかで、大騒動になってしまう。僕が朝鮮高校無償化裁判で弁護団長をやっているだけで、色々言われることがある。「内河先生、よく無事にやってますね」と言われることがあるが、憲法事情もかなり深刻になっていることを感じるね。今、頑張らないと取り返しのつかないことになるのではないかと心配するのは僕だけではないと思う。自由が自由でなくなる時代、考えてみるだけで恐ろしいね。

憲法は、毎日の食べること、学ぶこと、楽しむこと、生きることすべてに深く関わっていることを、改めて考えて見るべきだろう。

 

川上 普段はあって当たり前のように思っている。でも、それがなくなったときに初めて、いかにそこからさまざまなものを享受されていたかということが分かる。それが憲法だと思います。

「あ、これが憲法問題ね」という形で憲法が現れるというよりも、憲法の持っている価値が常に暮らしの中に生きているのです。「憲法を暮らしの中に生かそう」という標語の意味は、その憲法価値の存在を意識しようという一つの運動ではないかと思うわけです。憲法というのは空気のようなものであり、失うと分かるもの。いかにそれを守るかではなくて、逆にみんなが生活に使っていく、そういうものではないかと思うんです。


憲法問題と日弁連

そんな憲法問題も、今、弁護士の中でも考えが割れています。

 

川上 弁護士会というのは強制加入団体で、弁護士会に入らなければ弁護士としての仕事ができないわけです。強制加入団体には様々な思想をもつ人がいる。いろんな人たちを無理やり抱えているわけです。

もともと弁護士会というのは、弁護士法の第1条にあるとおり、基本的人権と社会正義を実現する団体であって、決して政治団体ではない。だから、一党一派として意見を言うとか、政治的な意見を表明して社会をリードする存在ではない。人権擁護のための団体なんです。これが基本スタンスですね。

 

ところが、人権を守る活動をしていると、政治的な活動と必ずしもきれいに分離できないわけです。弁護士会は政治的団体ではないから、政治への踏み込みは慎重でなくてはいけない。しかし、わが国屈指の人権擁護団体としては物を言うべきである。このはざまで活動するのが弁護士会だと思うんです。

たとえば、その時々に話題となっている法案や憲法改正案について、個人として違憲だ・反対だと言うことはいいんだけど、団体として意見を出すのか、またどのような意見を出すのかについては、当然、慎重にならないといけません。これがこれまでの日弁連のスタンスであり、多数意見だと思います。

 

私の考えは、強制加入団体である日弁連会員に色々なイデオロギーがある以上、最初から日弁連が「こうすべきだ「「ああすべきだ」というのではなく、その時々の政治情勢や俎上に載っている提案を受けた上で、どうカウンターを打つかを考え、的確迅速に対応する。人権擁護団体としての使命を全うするべく、熟慮する。そして、人権擁護の観点から看過できないか否かを常に考えて対応する。これが我々の責務じゃないかと思うのです。

 

内河 今、安保法制の裁判もやっているんだけど、いろいろ経過を見ると、例えば安保法制がつくられた後、日本の政府が何をやっているかというようなことがあるわけだ。今また中東地域へ自衛隊を派遣するとか言っている。

僕は、秘密保護法ができたとき、外国へ行ったときの自衛隊の実態など、ほとんど国民は知らされないだろうと思ったけど、案の定そうだったよね。南スーダンへのPKO派遣でも、色々のものが隠匿されていた。改ざんもされた。あれは大体読めていたわけだ。しかし、読めていたといっても実態が分からないことには変わらない。憲法違反行為が国民に知らされないということは、極めて深刻な問題だと思うね。

いろんな政府の施策があるけれど、それが今の憲法に違反しているのかいないのかという検証を、政府はほとんど議論していない。やりたい放題やっておいて、何か言われるといろいろ弁解する。これで果たして日本の将来は大丈夫なのかと思う。

戦争というのは相手がある。当然勝たなきゃいけないとみんな思っちゃうわけだ。ということは、相手を殺さなきゃいかんということなんだ。殺して、こっちも殺される。そういう事態が見えている。戦争というのは武器を持って戦うんだから。しかも戦争はこちらだけの考え方で動くわけではない。始まった以上、どうしようもない場面も不可避である。

 そういう現象を我々は何十年か前にとっくに経験をしている。「もう少し様子を見よう。」なんて言っているべきではなく、「戦争は常に避ける方向、やめる方向で努力し続けなければならない。」、アジア太平洋戦争の最後の時期に生を受け、戦争の惨状を垣間見た僕の率直な思いだね。

そういう問題を突き付けられたときに、弁護士会が、「我々は強制加入だから、今はちょっと発言を控えたい。」ということでいいのか、との思いはあるね。弁護士会に匹敵する法律家団体というのは、日本には他にないわけでしょう。そうすると、やはり何か考えていかないといけない。

 

川上 その思いは常によぎりますね。今、この国の大きな弱点は、やっぱり知る権利、情報公開の弱さだと思うんです。大前提として、もっともっと国民に情報開示が行われなければならないと思いますね。

たとえば、アメリカの情報が公開されたことによって公文書が出て、日本が情報を初めて知る。日本の体質や宗教観があるのかもしれませんが、日本は隠してなんぼという体質があります。

典型例は「桜を見る会」です。「ルールに従って破棄した」と居直ったとしか見えないことを徹底して言っている。普通に考えれば到底あり得ない。だって、名簿がないと次の年、誰が来るかということが決まらないのに、それがないわけがないでしょう。子どもが考えたって分かる。

政府が、いかに情報、情報公開というものを軽く見ているかが分かります。これが今の日本の権力が持っている1つの姿であり、政府や官僚に限らず日本の情報に対する意識の低さの表れでもあります。恐ろしいですよね。

 

だからこそ、まさに日弁連は情報公開ということを内外で徹底してやらなければいけない。内河先生のさきほどの話につながってくるような特定秘密保護法や情報管理・公開に関することに対しては、日弁連は、大変厳しい目をもって政策提言をすべきだろうと思っています。それが国民から期待されている役割でもあるでしょう。


(発行者)近未来の日弁連を考える会

名古屋市中区丸の内一丁目17番19号キリックス丸の内ビル5階(オリンピア法律事務所内)

 

(発行日)2019年12月27日